日本物理学会誌 57 (2002) 123 に掲載




質点と場と確率解釈
 

宮 沢 弘 成
神奈川大総理研 : miyazawa@info.kanagawa-u.ac.jp

 
 二年ほど前、この談話室で「電子は質点か場か」という記事1を掲載していただいたところ、多くの方からご意見をいただき、議論した。それに基づいてこの記事に少し書き足しをしたい。特に量子力学の確率解釈についてである。
 
 前記事の主旨は、電子を質点として扱うならば量子力学という難しい理論を用いなければならない。それに反し場とするならば古典論で簡単にすむ、というものである。これに対して次の質問があった。電子を場としてやるのと、シュレディンガーの波動力学と何処が違うのか? それは、一方は質点の量子力学であり、他方は場の古典論であるから、考え方から計算方法まで別のものである。まず波動関数の意味が異なる。 波動力学では  |ψ(x)|2 x に電子が見出される確率密度となる。場の理論ではこれは電荷密度であり、電子の位置という考えはない。シュレディンガーが初め何と言って波動関数を導入したのか知らないが、確率解釈が提案され定説となった。現在の教科書の多くも確率解釈のことを大きく扱っている。これらはいずれも電子は質点であるが、確率波と言う不思議なものを伴っていると言う立場だと思う。
 
 何故確率などというものを持ち出さねばならないかは明らかである。空間的に広がって分布している電子波を、場で表せばよいものを位置 で言い表そうとするから、位置は確定しない、ぼやけていると言うほかない。しかし電子は分割不可で、あるか、ないかのどちらかである。電子はここで見つかることも、あそこで見つかることもある、となって確率が出てくる。電子波は波数空間でも広がっているので、質点の言葉にすれば運動量も確定せず、ハイゼンベルクの不確定性関係となる。
 
 確率解釈などというものは避けて、電子はc-数(可換体)の場として扱うのがよいのである。もっとも変換理論によってq-数(非可換代数)の で表すこともできるので、近似的に質点の言葉で言い表して直感的理解を助けるのはよい。しかし測定によって系が乱されるとか、波束が収縮するなどと言うことを誤って理解してはいけない。
 
 ここで言うc-数の場による記述はかって議論された「隠れた変数」とは異なる。隠れた変数とは、位置の測定値が確定せず確率的となるのを嫌い、 のほかに目に見えない変数を導入して、測定値が一義的に、因果的に得られるようにしようとする試みである。しかしそのような理論は矛盾を含み、成り立ち得ないことがわかり、捨てられた。位置のほかに変数を導入しても駄目なのである。位置の換わりにψを用いればよいのである。
 
 場(波動関数)ψ をどうやって測るか。まず ψ の位相は、物理が位相変換で不変であるため直接測ることができない。(ある基準を決め、それとの干渉により位相差を求めることはできる)。絶対値 |ψ(x)|2 は測ることが出来る。それは電荷密度であるので、周りの電界を知ればよい。たとえば水素原子の電荷分布は荷電粒子をぶつけて弾性散乱の様子を調べればわかる。弾性散乱であり、状態を乱すことなく電荷密度を知ることができる。電子の位置 xを測ってその確率分布を出そうなどとしてはいけない。事態が複雑になるだけである。
 
 巨視的尺度では電子の「位置x」を測ることができる。たとえばカウンターを2次元的に配置して電子波を受けとめればよい。しかしカウンターは鳴るか、鳴らないかのどちらかであり、電荷密度を連続量として測ることができない。どういうときに鳴るか、は観測の問題であり、後で述べる。蛍光板に電子を当てて光らせるときは、もっと細かい話しになるが、つまるところは光るか、光らないかに量子化されており、カウンターと同じ事情である。
 
 電子を場として扱う限り確率解釈は不要である。確率解釈は電子の記述法がいわば不適切のときに生じるのである。自然界で因果律が壊れた、などと言うべきではない。
 
 ところで場は(第2)量子化しなければならないので、話が厄介になる。量子化しない c-数の電子場では、電子線や水素原子などいわゆる一体問題はよいが、多電子問題は解けない。もっとわかりやすい量子性は電気素量 e の存在であろう。電磁場ではプランクの放射公式を出すのに量子化が必要である。量子化すると場は量子の集団となる。この記述法では「確率解釈」は避けられないのではないか? 確かにその通りだが、話を進める前に、現在場の量子論は不満足なものであることを断らなければならない。現在の扱い方は、場を完全関数系で展開するなどにより、離散的自由度の力学系にして、それを量子化する。すなわち対象は可付番無限自由度の質点系であって、場ではないのである。しかしこの不満足な理論も、無限和が十分収束する限り正しい答えを与え、素粒子論で一応の成功を収めているので、 これにより議論する。
 
 たとえばフーリエ展開をすれば、場は運動量確定の粒子の集団となる。これを扱うのに再び「粒子系」か「波」かが問題となる。一粒子の量子論(q-数理論)は場の古典論(c-数理論)と同等であり、2粒子は6次元空間の波である。無限個粒子(»場)の量子論は、場 φ(x) を引数とする汎関数 Ψ[φ(), t]による c-数理論と同等である。このc-数理論を展開してもよいのだが、私たちは汎関数になれていない。むしろ多粒子系の q-数の方がわかりやすい。確率解釈でいこうというのが現状である。繰り返すが、確率解釈が必要なのは、自然界で因果律が壊れているからではない。私たちがq-数による記述法を選んだからである。将来「満足」できる真の場の理論ができたならば、場はきれいなc-数で表されるのではないだろうか。
 
 場はc-数でも測定法がq-数ならば観測の問題が生じる。量子化された物理量は微視的世界の専売特許ではなく、ディジタル録音等でお馴染みのパルスコードモヂュレーションなどあるが、量子物理では観測についてフォン・ノイマンの理論がある。彼によれば状態ψで物理量 A を測るとは、ψ を A の固有関数系へ射影することであり、振幅の2乗に比例する確率である射影が実現される。期待値は Ã=(ψAψ) である。観測は ψ から A の固有状態 φi を掬い出す操作であり、状態が収縮するというのは不適当であろう。池からバケツ一杯の水を汲んできて、池の水がバケツに収縮したと言ってはいけない。状態はシュレディンガー方程式に従って変化するもので、 非因果的にジャンプしたりはしない。
 
 波の収縮が云々されるのはたとえば次のような場合であろう。名古屋で電子一個を放出し、その波を半分に分けて東京と大阪に送る。大阪で電子が見つかる確率は1/2であるが、そのときは電荷保存から東京では電子は見つからない。したがって大阪で見つかった瞬間に電子波は大阪に集中し、東京ではゼロになる、というのが一部の人の主張である。これは観測理論の使い方が適当でないようである。今の場合、観測とは東京と大阪で電子を検出することであり、その固有完全系は、「東京で見つかり、大阪で見つからない」と、「東京で見つからず、大阪で見つかる」の二つであり、そのどちらかが1/2の確率で実現される、というのが正しい。 ノイマンの理論では測定の期待値が Ã=(ψAψ) と言うだけで波束収縮云々は言っていない。しかし波束収縮描像でも彼と同じ結果が得られるので、事情を承知の上で使えば正しい答えが出せると思われる。しかし東京・大阪で同時に測ったらどうなるかと訊かれると即答しかねる。
 
 フォン・ノイマンの理論により矛盾のない結論が得られるはずであるが、彼の解釈では物足りないという意見もあるようである。
 
 電子のc-数場の理論が波動力学と違うのは、単に波動関数の解釈の差だけではない。古典論であるので話が簡単に済むことである。前記事1で述べたことだが、電子が波であるならば電子による電磁波の吸収・放射現象のうち、自発的放射以外は古典物理で済み、ボーアの振動数条件(リッツの法則)、光電効果などには量子論は必要ないのである。量子力学に浸ってしまうとこの事実は考え難いかも知れないが、光電効果は古典電磁場で説明でき、光量子は要らないことは30年前に知られている2。多くの電磁現象で量子は要らないことは霜田が主張していることであり、その発言の旧、新いくつか3,4を参考文献に掲げる。
 
 
参考文献
 
1) 宮沢弘成: 日本物理学会誌 55, 211 (2000), 詳しくはhttp://www7.ocn.ne.jp/~miyazaw1.
 
2) W. E. Lamb, Jr. and M. O. Scully: Jubilee Volume in honor of Alfred Kastler (Presses Universitaires de France, Paris, 1969) p.363,
 
3) K. Shimoda, T. C. Wang and C.  H. Townes:: Phys. Rev. 102, 1308 (1956),
 
4) 霜田光一: レーザー研究  25 320, 387, 442, 531 (1997).

戻る